iとnot

私はわたしを手放して息のままに在りたい

私の中で、対話とは

整理。

対話がどういうものかを伝えるために書いているわけではないので分かりにくいと思うのですが、感覚の参考までに。

(ただ、自分にとって対話とは、から始まり私があなたと創りたい対話とは、に応えられるようにする必要はどこかの段階で必要になって来るなあと思った。

 

〇対話とは目的か手段かという問い

個人的には対話は目的でもなく手段でもなく、

(言い換えると、対話はするものでもなく使うものでもなく、)

対話とは場に流れるもので、「対話が流れている場」というように場の性質を表すものの1つだと捉えている。流れるものである、というのが私の答え。

対話が無い場は、「流れていない」感じがする。

うわべは変化があってもその根底には何も流れていない、停滞したまま。

流れる心地よさがありながらも、流れを創るエネルギーのようなものが必要。

ならばどうすれば流れ出すのかを私は考えたい。

 

〇対話が流れている時に起きていること

「聴く」と「伝える」がひたすら繰り返されている。

あちらからやってくるものを迎え入れて、(個人の内で起きることが起きて)、

自分の一部を送り出して相手へと還す。

これが繰り返されている。

ただこれを何が起きているのか観察しながら繰り返すのか、観察せずに惰性で繰り返すのかによって自分の内で起こることが変わって来る。

 

〇対話の姿勢

対話が流れていない時って何か「かたい」とか「縮み」とか「焦り」とか「視野の狭さ」とかが付きまとっていて、なんだろうこれはと思い返してみたら

「前傾姿勢」だ、と気付いた。

はやる気持ちを押さえられず(つまり「待てない」状態で)

上半身に力が入っている姿勢。

気持ち的な前傾姿勢もあるが、実際の身体的な前傾姿勢も含めて、「前傾姿勢」。

 

英語のpreviousは「先の」を表すと同時に「せっかちな」というイメージも表していることを思った。

おそらく、「警戒」によるからだを丸めたクローズドな姿勢なども前傾姿勢と同じようなところにあるだろう。腕組みとか。

 

鷲田清一の”「待つ」ということ”という本の中にあったこと。

ある日ふと、企業のさまざまな活動や業務にある共通の接頭辞がつけられていることにきづいた。それを順にたどり、そしてあきれかえったというより驚愕した。

……プロジェクトはプロジェクトであるが、次に利益はプロフィット、見込みはプロスペクトである。生産はプロダクション、約束手形はプロミッソリー・ノート、進捗・前身はプログレス、そして昇進はプロモーション。……要するに、すべてが前傾姿勢になっている。

……こうした前のめりの姿勢は、実のところ、何も持ってはいない。未来と見えるものは現在という場所で想像された未来でしかない。

 

‥‥「プロ」に象徴される前のめり姿勢は、実は〈待つ〉ことを拒む構えなのである。

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

 

じゃあ対話が流れている時はどうかというと、 

少し、後ろに倒れている。

相手側に、未来側に、ではなくて

自分側に、今側に、。

そして間違いなくオープンである。

それが影響しているのか分からないけれども、相槌も違ってくる。

私もともと相槌が多い人間で、相槌しながら会話のリズムをコントロールしている部分もある。が、それは無意識なので、前傾姿勢だと相槌が多すぎる・速すぎる傾向があるかもしれない。頭で刻みながらうなずく。。

逆に後ろに倒れている時は、相槌の間隔が広い。上を見上げて相手が言ったことを咀嚼したりする。そしてうなずく相槌ではなくて、のどで応える相槌、かな。

これはおそらく、「待ってくれる」という安心感があれば自然とそういうリズムになるのだろう。

なるほどー。姿勢つまりからだは自分でも他者からでも気づきやすいので1つの目安になる。からだを変えることできもちが変わる、のひとつだなぁこれは。

 

そういえばよく考えると、「この人といると落ち着く。この人のそばにいてみたい。」と感じる人は、少し後ろに倒れているかも。。

 

〇その他の雑感

私が今までで一番印象的だった時間はやっぱり、対話にはじめて触れた時間だ。。

1年と3ヶ月ほど前。その時はそれを対話と呼ぶことすら知らなくて、ただただ「自分が出ている。自分を出すとか出さないとかじゃなくて、ただ事実として自分が出ている。」その感覚に感動した。

ごちゃごちゃ書いたけど、結局あの時に感じた居心地のよさが対話が流れている場所というものに共通することなのかなぁとぼんやり思った。

 

参考:

わたしたちの中での「対話」とは? - ワールド・カフェ・ネット

 アパルトヘイトを解決に導いたファシリテーターのアダム・カヘンは、新しい未来を創造するためには、内省的で生成的な対話へ移行し、オープンな方法を選択しなければならないとしています。そのために何から始めるべきか?という10の提言が下記です。


一.あなたの状態や、あなたがどう話し、どう聴いているのかに注意を向ける。 自分独自の前提、反応、習癖、懸念、先入観、そして想定していることに気づく。

二.率直に話す。 あなたの考えていること、感じていること、望んでいることに気づき、それを言う。

三.あなたは真実について何も知らないということを覚えておく。 現状について理解していると確信をもっているときでも、「私の意見では」という一言を付け足す。自分をあまり過信しないこと。

四.そのシステムの関係者たちとかかわり合い、話を聴く。 あなたとは異なり、ときに反対の見解をもつ人を探す。心地良いと感じる状態を超えて自分の幅を広げる。

五.システムの中であなたが果たしている役割を振り返る。あなたがしていること、あるいはしていないことが、現在の状態にどう影響しているかを検討する。

六.共感をもって聴く。他者の目線で、システムを見る。相手の身になって考えてみる。

七.自分の話していることや他者が話していることを聴くだけでなく、全体で何が話されているかに耳を傾ける。
一人ひとりの意見ではなくシステム全体で何が浮かび上がってきているのかを聴く。心の底から聴くこと。心で話すこと。

八.話すのをやめる。質問の横でキャンプする(質問から一歩下がる)ことで、答えが現れるのを待つ。

九.リラックスし、完全にありのままを受け入れる。 思考と心と意志をオープンにする。心が動かされ、変わることができるよう、自分自身をオープンにする。

十.これらの提言を試し、何が起こるかに気づく。 他の人々との関係や、あなた自身との関係、そして世界との関係において何が変わるかを感じ取る。そしてそれをやり続ける。
出典: 『手ごわい問題は、対話で解決する』 アダム・カヘン著

 

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あぁ、そう。対話が流れない原因の1つは、「恐れ」だなぁと日々思う。

相手は自分に興味がないかもしれない。

相手には分からないかもしれない。

相手は否定してくるかもしれない。

伝えたところで何も変わらないかもしれない。

もしかしたら自分が間違っているのかもしれない。

そういう「恐れ」

 

もしかしたら、自分の中にあるその「恐れ」に気づき、

「恐れ」を抱えながらも1つアクションを場(関係性の中)に出してみる力が、

自分で自分の居場所をつくるちからに繋がるのかなぁと思った。 

「恐れ」から、アクションを出してみるちからを鍛える。

安心でない・安全でないと自分が感じているところで、アクションを出してみるのは出来ないから、まずは対話が流れる場所でやってみる。否定されない、待ってくれる、応えてくれる。そう感じてきた場所でやってみる。

そうすれば何かが必ず起きるから。

対話が流れる場所であっても何らかの「恐れ」は生じるけれども、これを出してもいいかもしれない・伝えてもいいかもしれないと、思えるかもしれない。そのうえでのアクションは必ず自分の経験になるから。

 

書いていて自分自身がそうだったなぁと思いだした。

とても不安で、これは間違っているかもしれない。

みんなに無視されるかもしれない。

そういう「恐れ」を感じながら出したアクションのことを、

そしてあの「恐れ」を私は忘れない。