iとnot

私はわたしを手放して息のままに在りたい

自分の言葉をじぶんで獲得する

高校生のころからお世話になっているNPOのメイン事業である小学生向けのイベントにスタッフとしてお手伝いしてきた。

そのイベントのふりかえりは置いといて、

5か月ぶりにそのNPOの中の人で、私の思考の面でだいぶお世話になった人と話すと、

あー自分って本来はこっち側なんだよな、と感じた。

こっち側というからにはあっち側があるということで、

さいきんはずっと「自分らしくなさ」と「もやもや」を自分に感じていて、

でもそれを環境や出会った人の影響のせいにしてたところがあった。

 

ということで頭と身体とこころがこっち側に完全に移行できるようにと思っていまこの文を書いております。

 

その人をみて、感じたこと。

・つかう単語に対する意味づけがきちんとなされている。でもその単語感覚はきちんと言語化された説明がなければ、他の人には理解できない。

・ただ強烈に「自分のこの感覚はこの単語」という結びつきを感じているしその正しさを信じている。が、言語化という作業が無ければ、その人自身もその単語がどういうことを指しているのか、どういう事実や現象に基づくのかは分からない。感覚が先にきて、それが実際どういうことなのかは後から見ていく。ただそれできちんと事実同士が繋がっている。

・全体として言っていることに矛盾がない。きちんと中で流れている。

・ドライ。全体的に、ドライ。ウェットじゃない。愛とか信頼とか哀しみとか優しさとか、そういう言葉がもつウェットさがない。あくまでもドライ。

・wantよりmustが上位にある。正確には、「まわりから読み取った(タスクとか)must<want<真のmust」の順である。なので自分に問うときはやはり、「あなたは何をしたいか」ではなくて「あなたは何を今の自分にしてやるべきか」なのだと思う。

・言語化の扱いが丁寧。何を言語化するべきで何はする必要がないのかがきちんと線引きされている。

 

これらをさいきんの私はすっかり忘れていたので、もやもやしてたんだ。もやもやを解決する(具体的に解決するというよりも、自分をうまく導いてやる)方法がおそらく二つあって、ひとつが「感情を味わう」ということ、もうひとつは「言語化する」ということ。

「感情を味わう」は絶賛練習中。(うそ。さいきんさぼり気味だ。。

んで「言語化する」ことに対する自分のスタンスこそが、いまの自分もやもやさせるものであったので、それはつまりもやもやの原因と解決方法が同じということなのでどうしようもなかった、と言う感じ。

 

よしよし。

「言葉を大切に。」

違う。

「自分の言葉はじぶんでつかむ。キャッチする。」

ほんとささいだけれども、まさにこの違いだ。

 

ちなみに、違うリスト(自分の言葉ではないのにつかってたもの。

・やさしさ

・うけとめる

・待つ

・許す

・愛する

・共感

代表的なのがこれくらいで探せばもっとあるな。

ただこの言葉が悪いとかではなくて、この単語に対する意味づけ・価値づけをきちんと自分で行わないまま使ってたのが気持ち悪かったというだけ。

 

1つ前のエントリーでは、「言語化することに満足して逆に言葉に対して不誠実な自分がいる」みたいなことを書いたけれども、この書き方では言語化が悪いものみたいじゃないかと思って実は書いてた。(まるで、言語化しないという余白を味わうことが善いことだ、みたいなニュアンスが出てる。

言語化は素晴らしいことだと思うけれどもなぁ。。違うのかなぁ。。と思って書いてた。

ほんとの問題は言語化ではなくて、言語化する前の「自分の単語の作り方」がよくなかっただけだ(自分らしさがなくつまり自分の単語に責任を持たず他者のせいにしていた。)と気付いた。

 

そしてこのエントリーは、普段の自分の言葉の使い方に近いなぁと思った。今までのエントリーよりも確実に。その分、他の人には分かりにくさが増し、文の柔らかさが無い気がするけどw

柔らかさとウェットさの違いは難しいけれども、

自分のための文と他者のための文がいつかうまく重なり合えばいいなぁと思った。

 

うん。なっとく。