ひとかけらの対話
【Reading Records】はてしない物語
自分に必要な最低限の輪郭
ふぅ、とな。
今日は起動してから立ち上がるまでに8時間かかった。
朝の8時に目が覚めてから、起動完了した時にスマホのディスプレイを観たら16時だった。返却期限を過ぎた7冊の本を抱えて家を出た。
9mmを聞きながらなんとか。
自分の「何か」が壊れ始めている。
きょうは涙が止まらない、止まら
ない。
会社での日々は、私にとって
”心底どうでもいいものを、どうでも良くない風に取り繕い、
どうでもよくない風に扱う訓練”だと思った。
それは私がまだ「社会人として甘い」部分でもあり、「私の性質」でもある。
でもいつかここを離れる時に必ず清々しい気持ちで離れる。
そして、憎しみの混じった怒りが涌いた。
彼が私の家に越してくることになって、今日荷物を運びこんできたのだが。荷物の多さにげんなりした。(そして彼が荷物をどたばたと運び込んでいる時に私はまだ「起動途中」だったので、それも大きく影響して「こいつ、うぜぇ」と思った。脱皮を邪魔された蛾、みたいな。)
・”とりあえず荷物運び入れる。レイアウト、置き場所は後で。”というのが嫌だった。クールじゃない、ナンセンスだ、汚い、と心の中で呟いてた。彼はレンタカーを借りてて急がないと返却ぎりぎりだったので「置くべき場所を考えて、置く・もしくは置きなおす。」の優先順位が低いのは分かるんだが、私こういうの嫌いだ、と思った、思ったというか「私はこういうのを嫌う」と決めた。
私「考えるより行動」がすごく苦手なので、「とりあえずこれして・しよう。考えるのは後・もしくは考えるな。」という上からの指示だったり、誰かからの依頼だったりに対する反射神経が鈍いというか、おそらくそういう神経が繋がってない。
のでとりあえず私の部屋に荷物を運び入れる彼、置くべき場所を考えておこうとしない彼、がとても下等な物体に見えてしょうがなかった。
はぁ。辛い。そういう気持ちになるのは辛い。(相手に理不尽だとか、この際もうよい。)
・私「身の回りの荷物」に対して理想がある。
彼は、「あれば便利なもの」「備え」が多い。
それがうざい、非常に。
私の荷物:彼の荷物でいうと1:4ぐらいあるのでは。。と思った。
身一つで生きていけそうな感覚を持っている人、場所や物に拘らなくても生きていけるような人、自分にとって必要な最低限の”輪郭”を把握している人(膨張しすぎていない人)というのに憧れがあるので、相手にもそうであってほしいと思っているのだなぁ。使おうと思わないと使わないものは部屋に置いておきたくない。私は服なんかその季節に3patternあれば充分だし、逆にpatternを増やしたくないと思っている。
なんか、この人は物が壊れたら当然のように「買い替える」ということをするやろうか、と思った。
上の二つが重なって、私は自分の部屋が侵されたと思って泣いたのであった。
おわり。
ここに小話を、いくつか
〇他人は傷つくという話
彼が「自分は人に興味が無くて、人を傷つけてしまう人間だ。自分には価値がない。」と言っていて、へぇと思った。
彼と違って、私はアスペルガーの傾向として「人に興味を持ってしまう」性質を持っているのだが、
上司をよく傷つける(もうこの2か月で4回ほど傷つけてる。)ので、人に興味の有る無しに関わらず人は人を傷つけるのだと思った。
というか、”こうすれば人は傷つく”ということを知るには一度誰かを傷つけてその誰かに”傷ついたよ、わたし。あなたのこういうところに。”と教えてもらうしかないのではないかと思った。
ある意味では、他人は自分の行動に(自分では予想できないという意味で)勝手に傷つくものだと思った。初回の傷つけ、ですな。
その後、それを繰り返さないようにすればなんとかなるのでは、と思った。たぶん「技術としての優しさ」をいちど広げてその要素を分類していくと、「配慮」とは逆の淵には、「傷つけない」みたいなのがあるのだと思う。
広げて眺めた後は折りたたんで携帯するの。
ちなみに、私は上司がどうして傷ついたのかその場では全く分からない。
ほんとに、はてなが浮かぶ。こっちが困惑する、とか思う。
「どうしてこの人は傷ついたのだろうか?」という顔をしているらしく、「どうして俺が傷ついたのか、いちどよく考えろ。」と言われる。彼が自分の傷つきを表面に出すのは恐らくほんとに傷ついている時(私の成長とかパフォーマンスではなくて、ほんとに感情から来ている時)なので、その感情にさせてしまうのは嫌だなぁと思いつつも、どうしてか分からないので家に持ち帰る。あぁまた考えないといけないことが増えたなぁとか思う。そして何に傷ついたのか分からないので表面上「すみません。」と謝るけど、ほんとはすみませんとか思ってない。
はてな?が先行している。
ひどいw
今日はそれを考える日のはずなのだ。今日があと7時間もあるうちに。
〇彼の話
彼は今日私に「あなたに依存している気がする」と言ってきた。
でも前(半年ぐらい前。まだ友達みたいだった時)にあった依存の匂いが今の私にはしないので、「依存してもいいんじゃない」とか答えてる。勝手なw
それは私の感覚が麻痺しているのだろうかと思った。
間違いなく依存しているが、依存しきればいいのにと思う。
が、同時に私は彼にそこまで依存していないので、。
あ、それがおそらく前回と違う。前回は共依存の匂いで、今回は彼の依存の話しなので、私自身からは依存の匂いが発せられていないのだと思った。だから匂わない。
今も彼に期待をしていないからだろうと思った。
彼は私に見捨てないでと言っているけれども、私と彼の間で見捨てが起こるとするならば、彼の方だろうという感じがする。
見捨て、というか、役割を終えたらまたしばらく私に近寄らなくなる。彼は、私の彼に対する言葉の中に諦めを見たようだけれども、だいぶ前からあったよと教えた。諦めないと辛いから諦めたから、いま私はあなたと一緒に居られる。
前ほどこの人を好きだと思うことはないけれども(やはり興味を一度切ったからだなぁと思った。いま感じている興味と、前まで感じていた興味は、線でつながっておらず独立している。)、彼と一緒に居ることで「私には訪れないだろう」と思っていた瞬間がたくさん訪れるのは確かだと思う。
たとえば彼が家にくるときに今日は何をつくろうかーと思う瞬間とか。は、手を繋ぐ行為ってちょっと楽しいとか思って繋いでいる手をぶんぶん振ってみるとか。人間と人間が1つになりたいと思う意志ってこういうことかとか思ってみたり。(別に生きるのにセックスって必要ないのになんでするんだろう。。一度じっくり考えてみたい。)
もしかしたらその訪れにいつか家族とかこどもとかパートナーとかが追加される時がくるかもしれないなぁと思った日曜の夕方。
「ゆいいつのひと」と「いっしょになる」イメージを中学生の頃から持っていて、その「ゆいいつのひと」に彼が成り得るだろうかと
最近ずっと世界を伺っている。
「ゆいいつのひと」というのもアスペルガーの特徴らしい。受動型アスペルガー、一度きちんと切り取らなければ。。
〇生きている実感の話
私が大好きなある女の子と、夜の梅田で待ち合わせてごはんを食べた。
私は大阪で彼女は日本海に面するところに住んでいるのでタイミングが合わないと会えないけど、会いたくてタイミングを合わせちゃうような女の子。
泊まり先の京都へかえるときに、
「久しぶりに自分が生きてる感覚がした」という言葉を残してかえっていった。
わたしは、目の前の人が自分と過ごす時間と言葉のなかで生きている実感を持つ、という漠然とした何かを持っている。
(上の、実感を持つ、の後に、
ようなひとになりたいと書いていたのだけれども、
なんか違うなと思って消した。)
するとたまに、ぽっと「生きてる実感がした。」と言葉を残してくれる人が現れるようになった。
私の中には「生きている実感」と言う言葉はなくて。
でも私は他者の中に「生きている実感」という感覚(言葉)を見出していて。
たまにそれが現れる。
というのが面白い。なんの性質だ、と思う。
なんかね、なんかね、「いま、生きてる?」と問いかけたくなる。
かれや、かのじょが、難しいことを考えているときほど
はたから見ていて、あいてがいきてるのが、わたしうれしい。
あいてをもっと感じれたらいいのに、と思う。
〇触れたいと思う気持ちの話。
彼とはコミュニケーションの1つと言葉の接触も身体の接触もしてあるのだけれども、彼以外に「この人に触れられたい。そして触れたい。」と思う人がいる。(あ、セックスとかじゃない。手、とかの話。
1か月ぐらい前に自分に残されているエネルギーの量を見誤って梅田で人と会って、
日曜の梅田のロフトで泣き出したことがある。
その時に一緒に居た友達が肩を抱いて避難するのを手伝ってくれたことがある。
そしてその後入った店で撃沈している私の頭をなでてくれた。(や、私がお願いしたからなのだけれども。
この人はそういうことを人に簡単にできるひとなのだ!とその人に対する発見として感動してたんだけど、きけばそうでもなかったらしい。
んでいまどんな気分ですか(人の頭をなでている人の気持ちがききたくて)と聞いてみたのだが、「触れることを許されている感じ」と応えられて、へぇと思った。そこに許しが出てくるのか、みたいな。
前からもっと人と身体的な接触でのコミュニケーションを増やしてみたいと思っていたので今度お願いしてみようかなぁとか思った。
なんか、他人に対する接触の量ってモラル?的な何かに制限されているなぁと思う。や、制限して然りなのだけれども。
それをさ、誰かと一緒に探究してみたいなとか思う。
きけん、な匂いも存分に孕んだ何かだ。
〇文通してみたい。
と前も思ったのだが、その時はしなかった。
文が通う。
文を相手に通わせる。
ってすごい。
ちょっと考えよう。
言葉が訪れるということ
これ(ぱそこん)のすごいところは、思いついたときに思いついた速さで文章が現れるところだと思う。
彼と出会って得た言葉は、「彼」という言葉だと、
「陽の仕事」という本を読んでいて気付いた。
それまで私の中には、自分と関係のある特定のこの世の誰かを指して
「彼」と呼ぶ習慣がなかった。
でも彼と出会って、そこには彼以外他の人はいないという私の領域の中に入ってきて、私が彼を「彼」と呼ぶようになった。
「彼」という言葉を覚えたことで、
私の世界は確実に広がっているのだなぁと思った。
小説や日記に書かれている「彼」という言葉の意味、というよりもそのイメージや色や奥行の違いが私にも分かるようになった。
それは、「文脈上既出の、男の人を指す」ということ以上の何かであった。
人がその人を「彼」と呼ぶときに、無意識のうちに込めている何かが
自分にも訪れた気がした。
それは、なぜだか分からないが、とてもとても素晴らしい訪れのように思えた。
そんな話。
いいですよ、陽の仕事。