髪を切られる
今日美容室にいってきた。
ということは「髪を切った?」と友達にはきかれるし
おそらく私も「うん切ったで」と答える。
人に伝えるときは「切った」で表現する。
が、あえて「切られる」を用いると、
髪を切るという行為がなにか特別なものに思えてくる。
「自分以外の何者かによって、自分の髪を切られる」ということが。
「髪を切られている」
この、どうしようもない”あらがえなさ”
今日はずっと目を瞑っていた。
ハサミの音と、自分の髪の音。
ハサミが触れる。
ハサミの先にある、人の手。
そんな自分の髪の毛を切られる感覚にずっと浸っていた。
また美容師さんの迷いやためらいの無さが、私の”あらがえなさ”を加速させる。
その”あらがえなさ”は、どこかで私に何かをもたらす。
ある人が
「人間がおそれるのは、自分がただ<存在>すること。」
と言った。
そういう”あらがえなさ”に身を浸していたのかもしれない。
あの瞬間、私はただ<存在>する自分でしかいられなかったのかもしれない。
考えていたし、感じてもいた。
でも”あらがえなさ”がそれらを髪の毛にのせて床に落としていくのだ。
わたしの一部がわたしの一部でなくなっていくのだ。
そうやって、髪を切られた。
もしかして自分に好きな人が現れたら、
私はその人に「じぶんの髪を切ってほしい」とお願いするのかもしれない。
「髪を切ってくれる」の先にある「髪を切られる」ために。
ただ<存在>する、自分をその人にはみせたくて。
いつもと同じ美容室でいつもと同じ注文だったけれども、
今回の髪型はけっこう好きだよ、わたし。