iとnot

私はわたしを手放して息のままに在りたい

 

”他者の存在を受け入れて、

自分の好きを仕事にして、

なんだかんだいいながら、自分と向き合いながら生きる。

そんなことを大切にしたいです。”

 

私の中で誰かがそう言っている。

そしてそいつがそう言うたびに私は、取りたくてもとれないようなおおきなおおきな否定をはっつける。

そんな簡単に、いとも素敵そうに、他者を受け入れるだなんて、

自分と向き合うだなんて、いわないでほしい。

そんなことを言われたら、自分と向き合えなくて、向き合わない人間は、

そこに恐れを抱いている私は、

どうすればいいのだ。

 

誰も言っていないのに、私の頭で勝手に誰かが喋る。

そんな人を私は勝手に否定していて、なんだか辛いなぁと思った。

 

文字にしてみたが、

どれもなんだか、非の打ちどころがなくて、なんだか気持ち悪いなぁ。

自分と向き合うだなんて、ほんと、非の打ちどころがない。

 

うんと、たぶんそれは私の頭で勝手に再生されているだけで薄っぺらいから、否定したくなる。誰の実感でもない、ただ単語だけがある程度の文法にのっとって並んでいる。

そっか。

 

(ちょっと前から、「大切にしたいこと。」というのは私の中で「飽和」。大切にしたいって、事実と気持ちにずれが生じている気がする。)

 

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

 

 

私は「好きなことはなんですか。」「好きな○○はなんですか」という質問が苦手で、好きだなぁと実感している時じゃない時にそれを訊かれても…というのと、好きよりも嫌いの動きの方が気になるというのと。

好きを仕事にする、ということだったり、働く目的ということだったりは、私のちょっとそこらへんでも言われている。

でも自分の「好き」に対する感じがそんな感じなのもあって、いまいち好きを仕事にするということだったり、好きなことを学ぶということも、いまいち納得はできてなかったんだけど、さっきふと目にしたこの、自分を生かすという感覚は私に合っているかもしれないと思った。

レビューの中で”「でも働くべきだとか、仕事の中に喜びを見出すべきだとは、まったく思わない。人は「より生きている」という実感に喜びをおぼえる。仕事はその感覚を得やすい媒体のひとつである、というだけのことだ。」とも著者は語ります。”

とある人がその3文に注目していて、すとんと落ちた。

 

そう。・・・・そう。

”私は、目の前の相手に「生きているという実感」を言葉を通して感じてほしい。”

私は6月にそう願った。

そして11月に、ある人から「あなたといると、自分が生きている実感がする。」という言葉を贈ってもらった。

「仕事はその感覚を得やすい媒体のひとつである、ということだけのこと。」

 

喜びとかわくわくとか、私にもあるから、それの魅力は分かる。

それをつくろうとする人もすごいなぁと思うのだけれども、

その人がその人であるということにはやっぱりそれだけじゃない気がする。

もちろんその人たちも喜びやわくわくオンリーで生きているのではないと思うが、やっぱり私が何かを表現するとするならば、それは「生きているという実感」になるのかなと思った。

自分が自分である感覚と、生きている感覚が、どちらもあってやっと「生きているという実感」になるのかな。(それは、まだ分からない。これから探求したいっす。)

 

学びにも、自分を生かすような学びにすればいいのかもしれない。

好きとか、じゃなくて。

どんな学びが私を生かし、私はどんな学びを生かすことができるのか。

うん。