過去の自分に感謝する
自分の性質の話をいくつか。
私、ごくまれに過去の自分に「えらい。お前はえらい。」と言いたくなることを過去の自分がしているなぁと思ってその時の自分に思いを寄せるのだけれども、
そのうちの1つ目が小5の時の話。
もう一つがインターンの開始時の契約時の話。
小5の年度の終わりに、担任が生徒ひとりひとりの強みをメッセージとしてひとりずつにおくる時間が授業まるまる1つ使ってもたれた。
そのとき、ある友達が先生から
「この子は吸収力を持っている。
スポンジのように自分の外にある様々なことを意欲をもって吸収する力を持っている。」と言われていて、
私は「あ、それ(吸収する力)いいなぁ、私もほしい」と思った。
それはとても強く思った。無意識の悔しさまじりのそれ。
だから私もそれを身に付けよう、と決めたんだよね。
推測なのだけれども、どうして小5の自分はそれを「いい」と思ったのかというと、「それなら自分も身に付けられるから」となぜか思ったんだと思う。
例え自分に何もなくても、努力することはできるから、と
考えたんだよね。決めたんだよね。
それから10年くらい経って、「あなたは吸収力があるよねー。」と言われるようになってきたんだよね。おもしろい。
それは確実に、小5の私がそう決めた事実のおかげだと思うのだ。
小5のわたし、えらい。そしてありがとうありがとう。
もう一つのインターン開始の契約時の話。
受け入れてくれる人と私の間で、インターン(半年)の間の目的だったり目標だったりを言葉にして教えてくださいと言われたのだ。
んでその時の自分は目標か何かの項目に対して、
「自分らしさを定義することなく感じていたい。」と答えたのだ。
(どんな答えだよw
なんの答えにもなっていないのだが、
それでもその言葉には自分の欠片がぎゅっと詰まっていて
これ、自分は一年以上前ににすでにこれを自分の答えとして持っていたのか。。と我ながら考えさせられる。
18の女の子が
自己分析とか自分探しとかやっぱり単語として気持ち悪いのだが、
私は結果として感じられる感情が好きなのだよなぁ。
「楽しむ」という意志の伴う行為は私まったく分からないので出来ないのだが、(「楽しもう」と思って「楽しめる」人ってすごいなぁと思う。別にもうそんな能力私にはなくてもいいので、単に、同じ人間なのにすごいなぁと思う。)
「あ、いま楽しい」「あ、いま自分楽しみにしてる」「これが”楽しさ”か」は私もある。
自分らしさを定義することなく感じる、ってそれに近い。
結果として感じるもの(それこそ純度が高いものなのではないか)、と認めている。
もういちど、自分ののどを震わせてつぶやいてみる。
じぶんらしさを、ていぎすることなく、かんじていたい。
この二つは過去の自分がそれを決めたのって、あまり「当然」な気はしない。どうしてその言葉を生み出したのだろう。どうしてそれを心に焼き付けたのだろう。
だから感謝する。私は過去の自分に感謝する。