iとnot

私はわたしを手放して息のままに在りたい

学びの実感

なんかわくわくしてきた。

私は学ぶのがやっぱり好きだなぁと思った。

今は「この学問」とは言えないけれども。

empathy:共感だったり

self‐compassion:自己への慈悲についてだったり、

somatic pyhcology:身体心理学

などへの興味がいま私を生かしている。

やはり私はその人の内側に流れるものやその奥に在るものを見てみたい。

いつかそれら自分の学びすべてが、

”他者のために生きる存在”という自分に繋がる気がする。

(自分のことを自分のために考えるよりも、相手のために自分のことを考えたり、相手の感情に焦点を当てながら相手がより善く生きるためにということを考えている方がやっぱり私はよく機能する。ほんと触媒のようなものでありたいのだなぁ。

 

 

そしてやっぱり、learning design的なことも学んでみたい。

今の日本の学校的なstudyでもなくて、

「なんか意識高いよね」と言われてしまうような背伸びしたものでもなくて、

その人がその人らしく生きるための学びだったり、

自分を取り戻すための学びみたいなもの。

(こないだ書いた自分の身体に気をくばる、というのがこれに近い。

 

気づきや、学びの実感って私にとってはすごくすごく大きいのだなぁと思った。

もちろんわくわくから発生した学びや気づきだけではなくて、

しんどさや苦しさからようやく生み出したものも多いが、

それらをゆるく、でも確かに包み込んでくれるのが、学びや気づきだと私は思う。

 

何を学び、何に気づいたかという内容よりも、

その時生まれた今もあるこの学びと気づきの実感は、

私が確かにわたしであった証拠であり、

今までもそしてこれからも”私はわたしで大丈夫である”ことの証でもある。

それらと私はともに生きてきて、これからもともに生きていく。

 そんな気がする。

 

自分の世界を彩るものの1つが学びや気づきであるからといって、

他者もそうであるとは限らないが、そうでないとも限らない。

それぞれがその人にしかない実感とともにある学びや気づきをデザインするちからが育まれればよいなぁと願う。

 

少しじぶんのバックグラウンドが見えてきた。

前傾姿勢で前をみようとしても、見えないから、

すこし後ろをふりかえりながら今を感じる。

そうすると自然と現れる未来をわたしは待ちたいなぁ。