現れる自分を待つ
自分が関わっている活動(ざっといえば、高校生が0から企画を考えて実施するまでのファシリとして高校生に関わる活動)がしんどい。
できるかぎり私は自分を丸ごと持ち込もうとしているので自分のコンディションが「良くない」と自分で思うときは関わり方も良くなくて懐疑や否定が働いてしまうし、そもそも高校生が何を考えているのか何を感じているのか何をしたいのかがどんどん分からなくなるし、彼女たちは表面の言葉がすぐ変わるし(軸がないように見える)、自分たち(高校生と、ファシリとしての私たち)は今どこにいるのかも見失っているように感じてしんどい。活動があった日は肩甲骨がごりごりでめっちゃつまってるし、疲れて夜の睡眠とは別に夕食前にエネルギーが切れて寝てしまう。(疲れもあるが、睡眠の質の悪さを量がカバーしようとしているのだと今気づいた。)
が、それでも(というかそれだからこそ)この活動と今の自分は意味があると感じる。エネルギーがわいてくる。
自分がどんどん小さな”ただの自分”になっていくのがいいなぁと思う。
すごく微細で、実感を伴ったままの表現もしづらい人と人とがつくりだす場にいて
いまのこの”出来ない”という実感は、
やってみようとしている証でもあり(やってなかったら”出来ない”という実感は生まれないから)、
何か次のことを試す余地があるということでもあり、一度立ち止まって選択肢を自分でつくって選び取るという場面が出現しやすいということでもあって。
もちろんその進む感覚や創る感覚も面白いなぁと思うのだけれども、
同時に自分の何かが剥がれる感覚や、
自分で自分を削ぐ感覚も自分に対してつくられていて、
「この感覚こそ自分にとって大事なものだ」と感じる。
(前者の感覚を覚えるって、なんだかポジティブな人間みたいだなぁ私そんな人間だったっけなぁと思った。出来ないことに対してもっと自己否定やら相手に対する申し訳なさが働いてもおかしくない気もしている。
ひとつ、自分は”悔しい”と言う感情だけは正常に(他の人の感覚と同じように)働くと思っていて、それも原因の一つであるんだろうけれども、
それより大きいのはこの感覚が自分にとって”必要なこと”だからだろうなぁと思った。(その”必要なこと”というのは、wantとそれより上位のmustを含む自分にとって大事なもの。))
自分から何かが剥がれ落ちる、また、自分で自分を削ぐ。
そうすると本来の自分の形が浮かんでくる気がする。
「木から仏像が現れる」ということを想った。
(余談ですが、インスピレーショントークというプレゼンの創り方も、プレゼンをつくるというよりは、相手に贈りたいという願いさえ手放してしまったその先に、現れる何かを掘りながらも待つ、そんなプロセスだなぁと思ったことがあります。)
剥がれるというのはおそらく気づきの力を借りていて
削ぐというのは意志の力だ。
が「何を」というのは言葉にできないし、明確にする必要もないのだろう。
少しずつ不純物がなくなっていって
本来の自分の感触や自分のでこぼこに成っていく。
もし自分がそんな自分に成ったのなら、
肯定するでもなく否定するでもなく「存在の肯定」に至る気がする。
何に対してもだれに対しても評価をしておらず、
つまり何も判断していなくて、何かと比較することもしておらず、
Accept your emotion nonjudgementally,and work with them.
を、鏡のように辞書のように、
”他者と世界”に正対しているのでないか。