iとnot

私はわたしを手放して息のままに在りたい

”努力”の概念なしに、努力できる

自分の性質だなぁと思ったので投下。

 

自己と他者との境界線があいまいである、ってこれかなぁ、、と思ったやつ。

・相手と距離が近くなるにつれて、私が非言語的になる。相手に対して分かってもらう努力=言語化を怠り始める。自分が相手のことを分かり始めるにつれて、そして相手にも自分のことを理解してもらえていると感じる回数が増えるにつれて、少しずつ「相手は自分のことを分かっている」という思い込みにすり替わっていく。ほんとに色が変わっていく。じゃあ逆に自分は相手を理解しているという前提は生まれるのかというと、どうだろう。。その思い込みも生まれているのかもしれない。

ただ、この世界では他者が他者のことを100%理解することは不可能・起こり得ない、らしいので、相手からすると急に非言語的になってだんだん分からなくなるのかなぁと思った。だから相手と自分で事実としてギャップが生まれていく。それがいつ問題になるのか、という話だろうなぁ。

そして非言語的な表現はこどもっぽい。とてもこどもっぽいと思う。

最近の私の非言語性は、

・困ったらとりあえず笑う(なんも面白くないけど。)

ちなみに「笑い事じゃないから」とちょいちょい言われる。そのたびに、「あ、ミスった。」と内心思う。

・うぅとかむぅ、とか唸る。仕事で困ってる時(ひとりのときしかしないようにしてるけど)よく唸ってる。

 

あともう一つ。

受動型ASは問題が起こった時に、その問題自体ではなくて、

その問題の周辺や、周辺としての自分を評価し始める、ということ。

あーこれ私もよくしているわ、と思った。

でもまだ噛み砕けないので保留。

 

あと、これも性質か、と思ったこと1つ。

・自分からすると淡々と行っていることが、他者からすると努力とか頑張りとか、

それに伴う評価につながることがある。

なんだろう、「努力という概念無しに努力できる(ただし分野は限られる。)」

他の人が「頑張らなきゃ」と意気込んだり、逆にそれが終わった後に「頑張れた」と自分を認めたりすることは、私はなんの山も谷もなく、フラットに次に行く。

やる・終わった。でしかない。

あ、これ、もしかして他の人は違うのか、と思ったりした。

まぁ、だから抜くところが分からないのだと思うけれども、その点については「自分が感覚でこれぐらいしたら、これぐらい評価される。」というラインを(分野ごとに違うけれども)知っておけばそれでいいのではないかと思った。

もしギャップがあるならば修正して、ギャップがなければそれを適応していけばいい気がする。

(わたしが感覚で30したら、まわりは50ぐらいで評価する。

 →30を上げる練習をそのまま進める。

 わたしが感覚で30したら、まわりは20ぐらいで評価する。

 →まずは自分の感覚と評価のずれを探ってその後、30を上げる練習を続ける。

おそらく、30を上げる練習はほっておいても続ける。それは他者に評価されたいからではなくて、30であることが悔しいから。50や60や100やその先にまで行ける可能性を感じているのであれば、そこに行こうとするはず。その過程を楽しんでいる節がある。)

これは私、強みにできる種だなぁと思った。