iとnot

私はわたしを手放して息のままに在りたい

「受動型AS」から自分に共通する性質を切り取ってみた

(昨日自分の性質について書くといいながら結局いっさい性質については触れないまま終わったw。そのあと自分の「言語化」についての感覚を書いたのだけれども、もう少し何か出てきそうなので(下書きで)保存して寝かせてある。

 

なので別の角度から見た性質の話。

以下が自分の性質についてとてもよく書かれているなぁと思ったブログ。

notebook: 意味不明な人々-発達障害(ADHD、アスペルガー)と人格障害に取り組む Doctors Blog 医師が発信するブログサイト

 

書かれているのは受動型ASについてで、

書かれている内容の狭さとその一致具合から考えると

私も受動型ASということになる。

以下は前置き。

 

そもそもこれが流れてきたのは、

私がその人と出会ったときに

「この人とは感覚が一致する。言語化以前のイメージのままでもコミュニケーションができる。あー自分も人間の思考や言動の範囲の中にちゃんといたんだな」

と初めて思えた人からのシェア。

 

その人も発達障害なのだが、

そして知れば知るほどその人と自分の思考と言動は一致する。

年も違うが、今の自分と過去のその人の思考回路と行動の一致感は、

おそらく普通の人はなかなか持っていないだろうなぁ、と思う。

(私のこの部分は、他の人とは合わないだろうなぁ。という部分の方が一緒。)

過去の日常を切り取ったワンシーンが、なぜか今一致する。

そんな感じなので、

「あ、ということは自分も何かしらの発達障害を持っているのかな」と考えていた。

 

発達障害って、私は自分の性質を考えるときの手がかりの1つにこれからなるかもしれないと考えている。

そう言う意味では自分をアダルトチルドレンだ、と名付けたのも、

自分のことを考える手がかりにしようと思っていたのだと思う。

(実際捉え方の指標があると考えやすい。)

このブログを読んで、「あ、受動型ASか。」と思ったものの、

受動型ASについて考えるというよりも、1つ1つその性質をとりあえげみたい。

 

(以下特質メモ。今回は特に関係なし。

・私単語に色をつけたり、こどものころは数字に性格を与えてたりしてた。

最近気づいた。

調べてみて、共感覚:文字や音に色が見える【共感覚の世界】 - NAVER まとめか、

とも思ったが、そこまで安定しているかどうかはまだ不明。)

 

 

以下本題。

ここまで書いてきた受動型ASの「特定の人への異常な愛着」と「普通へのこだわり」は、二つの平衡点とも言うべきもので、この間に山型にストレスの高い状態があり、「普通から遠ざかりすぎると特定の人への依存に行く」という関係になっていると私は想像する。

 

 実はこの「普通へのこだわり」自体が最もAS的な特徴であるのだ。「自分こそが普通中の普通で、ほんの少しも偏ったところは無い」と異常に自己正当化し続ける。世間の全てが自分の主張を当たり前に受け入れるべきであり、その根拠は「自分が普通であるから」というわけだ。  

 

一発目が「普通へのこだわりかぁ」と読んでいて思わず笑ってしまった。

だって、それはいつの間にか自分の中に根付いていたから。

この「普通へのこだわり」が他者とどうやら質が違うっぽいと、

ようやく最近かすかな違和感として浮かんできたのだが、

いちいち言語化する必要もないと思っていたから。

それをピンポイントで言葉にされると笑ってしまう。

 

今まで感じていた「普通」に関する違和感(他者との差異感)で既に言葉にしたことがあるものとしては

・「人の目を気にする」という言葉を使うとき、どうやら他の人は

「自分が人からどう見られているのか」という意味で使っているらしい。

その意味では私は

「人の目はさほど気にならない。自分が行う選択には結局みじんも影響しない。」。

だが「人の目・視線」という意味では「自分以外の人間が、何を見たときにどんなことを感じ・考えるのかという一般ライン」は私すごく気にしてる。

人の目が気になるらしい - iとnot

 (この半年前のエントリーでは、「「ほかの人がどこを見て何を思っているのかが気になる」と書いている。こっちの方がしっくりくる。。

 

これ、「ほかの人」と書いているけれども

誰か個人レベル(each)の話じゃなくて人間ぜーんぶ、の話。

”普通の人間って、どこに視線をやって、

その視線の先にあるものを見たときに何を思うの?”

”それが知りたい。”

”それを知って、自分が普通にいるのかいないのかを知りたい。”

そういう「普通へのこだわり」

 

・あとは、「変わってるね」と言われると喜ぶ人だったり、褒め言葉として「変人」という言葉を使ったりする人が結構多いが、あれなんなのだろう。。と思う。

気持ち悪いとかではなくて、それを「変」を「良」的に使う・受け取る感覚が

私にはないので、そういうやり取りをみると不思議だなぁと思う。

それに関連してか、私あまり「この人変わってる」と思わない。

まわりの人が「この人変わってるよね」と同意を求めてくる時ってあるんだけれども、それに同意できたためしがないんだよね。いわゆる天然と呼ばれる人とか。(が、おもしろいのは、1つ目の「人の目」を気にしているので

「この人天然って呼ばれるんだろうなぁ」というのは分かる。

があくまでもそれは自分の感覚と切り離したものとして理解されている。)

このあたりが「普通」と「変」の感覚として、他の人と違うなぁと思う。

 

そしてリンクを読んで、そういえば私

「どうして自分はこんなにも分かりやすいのに他者から理解されないのだろう。」と思っていた時期があるのを思い出した。

始まりは小学校のころで、

「私ってすごく標準的・一般的な考え方をしているから、大衆(この場合は多くの同じ学年の子という意味)に受け入れられやすいはずなのに。どうして大衆にそこまで受け入れられてない感覚がするのだろう。」

と不思議に思っていた。

懐かしやー懐かしやー。

成長した今では、客観という特質のストッパーみたいなのがかかって絶対に言わないことを、過去の私は特質全開で言ったり考えたり悩んだりしているのですごくおもしろいと思う。

 

まぁ、記事の中にあるような

 受動型ASの普通へのこだわりの大きな特徴は、少しでも普通であることを否定された場合に限り、「自分が普通だ」「自分が正しい」と死に物狂いに自己正当化する行動である。

 その結果診断自体も否認するケースもある。

というのはないかなぁと思う。

今でも「私は普通」という感覚(これ、思考ではなくて明確にただただ感覚なのだよね。。)はあるしこれからもずっとあると思うが、

「じぶんはじぶん(変とか普通とかっていうのは、行動・思考の結果として一般的に現れたりするだけ。)」という答えもとりあえず同時に根付いているので、

ひとまず大丈夫だと思われる。

 

余談だが、結局このリンクを読んで、

「あ、私やっぱり普通だな。だって人間の範囲にいるし。」と思った。

自分が言語化を逃すぐらいの性質を他人がここまで言葉にしているってことにまず感動したのだけれども、それって自分の性質には分類される型がすでに用意されているということだと思う。

つまり自分以外にこの世にたくさんいる、ということだから、

それだけで私はすごく安心する。

私が一番怖いのは、分類される型がない名前のないマイノリティであることだと思うのです。(過剰な分類は私も好きではないが。)

(「普通へのこだわり」ゆえに書いた人が言いたいことと逆のメッセージを受け取ってしまったという話でした。)

 

次に出てくるのが、他者への100%理解の話。(長いけど大事なので載せます。)

 受動型ASの本人が理解するべきことは、以下の通り。

1.「誰かが本人を理解することも、本人を大事にすることも、100パーセントを求めることは出来ない」という単純な当たり前の真実を認める。

2.親でも。親友でも、パートナーでも同じである。「100パーセントを目指して努力し続ける」ことは出来るが、結果として「100パーセントの理解が成立した」と感じるとすればそれは「錯覚」であり、「勘違い」である。

3.当たり前に100パーセントの理解や100パーセントの受け入れを要求した場合、関係が長持ちすることは不可能である。これも考えれば当たり前であるが、現実的には「4、5歳までの幼児期に親が一見それに近い状態になれる」か、� �たは「胎児期の母親は100パーセントの庇護をすると言えるが、その母親に胎児が現実的に要求することは出来ない」と考える。

4.だから受動型ASの人には究極の選択が必要である。「100パーセントを求め続けて孤立する」結果を選ぶか、「100パーセントを断念して50パーセント、70パーセントで納得するようにして(妥協によって)実際のパートナーを得る」かである。

5.受動型ASの人が求める「相手からの無条件の必要」も現実的には「幻想」である。当たり前であるが、相手の誠意を試し続け、痛めつけ続ければ遅かれ早かれ相手は去って行く結果になる。「どんなに痛めつけても見捨てない根拠になる必要」などあり得ない。親でも人間であるから限界があり、私は主治医として「児童養護施設に預けて親子が離れる」� �告をしたケースも実際ある。

6.有限の世界の中で生きた人間に可能なことは、「努力」「決意」でしかない。努力は求めても、結果の要求をしている時点で関係が長く継続することは諦めるべきである。

7.「選択の結果としての必要」は求めることが出来る。必要の結果としての選択ではなく、選択の結果としての必要であれば、現実の有限な世界の人間に可能な行動である。当たり前であるが、選択は永続的である保障は無く、努力をし続け選択をし続けることが出来るだけである。

8.「相手に100パーセントを要求出来ない」ということは、「全てのことで一部は自分の責任で行動するしかない」ということである。うまく行かない結果も当然一部は自分自身の責任であり、何かを実現したいと望むのであれば一部 は自分で努力するしかない。
  
9.胎児の状態で無い限り、自分の身体と人生のコントロールの責任は自分にある。本人に不安や苦しみがある場合、親は他者として本人の不安や苦しみを軽減することに協力する努力は出来るが、親が本人の不安そのものを消したり肩代わりすることは出来ない。

10.上記の意味では、人間はみんな「孤立」していることを認めるしかない。誰も誰にも100パーセントの依存をすることは出来ない。

 これは原理的には全く「当たり前」のことであるが、受動型ASの人にはこの説明が実際必要であり、またこの説明を見ても「頭では分かっても納得出来ない」と言う受動型ASの人が実はほとんどであろう。

 

最後の一文にはあるが、ほんと「頭では分かっても納得できない」のだ。

もちろん、今まででうっすらと感じていたことではあるんだけれども。

いちど100%の理解を求め続けた結果孤立して絶望するか、こうして他者から突きつけられなければ理解しないだろうなぁ。。

 

前から思っていたこととしては、

・どうしてみんな「人は理解し合えない」って言うのだろう。

 なにそれ、諦め?哀しい。

・なんだかここで自分も諦めるのは悔しいので、理解へ近づく努力は続けたい。

・自分がもし誰かと一緒になるとしたら、その人のことを自分は100%理解したい。(昔は理解されたい、だった。)

・不安定になると、100%の理解を相手に求めたり(文中の「結果の要求」)、相手を理解するための材料の提出を相手に求める。が、相手はそもそも100%の理解を求めていないので、どれだけ自分の欲求を伝えても共感してもらえなくて辛くなる。

 

個人的には文中の6・7を咀嚼したいなぁ。。

有限の世界に生きた人間に可能なことは「努力」「決意」でしかないのか。。

「努力」はどうやら私の中で芽生えていたようだが、「決意」はないのなぁ。

 

私が中学生のころから持ち続ける、誰かと一緒になるイメージって

「ふたりで、ふたりだけの世界に墜ちる」イメージなのだ。

(どっかで書いたことあるっけ、これ。。)

ずっと私が抱いていたこれが、去年の9月ぐらいに突然

”それは、そしてそれを夢見るあなたは、不健全かつ異常で汚らわしい”

と世界から評価される気がしてすごく悩んで落ち込んだことがある。

これもお互いが100%を満たした状態だったり「相手からの無条件の必要」を含んでいたりする。イメージとして。

あー、甘美。

昔はもっと言葉だけだったのだが

最近頭の中の写真(イメージ)としてその様子が明確になりつつあるので、

その甘美さは増す一方です。

 

(ひとつひとつ文中のものを自分に結び付けて解釈していくと、途方もなく時間がかかる。。

リンクはまだまだ続くのですが一区切り。